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二十五菩薩像

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元箱根石仏群。箱根の歴史を感じる旅 - 池のほとりのお地蔵様たち - 国指定史跡

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元箱根石仏群は、神奈川県の箱根町にあり、国の史跡、重要文化財に指定されています。
お地蔵様のほか、多田満仲の墓や、曽我兄弟の墓なども安置されており、そのほとんどが鎌倉時代に造られたものです。
かつて地獄と言われたこの険しい山の中での、地蔵信仰を垣間見ることができます。
遊歩道などが整備されていますが、私が行ったときはかなり草木が生い茂っていました。

目次 - Contents -

なぜこの地に石仏群があるのか?

鎌倉と京を結ぶ鎌倉古道という交通路がありまして、特にこの辺りはかつて箱根越えに使われた道「湯坂道」のほぼ最高地点に位置し、険しい地形から「地獄」と言われていたそうです。
そして地獄から救ってくれるのはお地蔵様、という信仰から、石仏群が形成されたとのことです。
実際に来て見ればわかりますが、今でも周辺には何もないところです。しかも奥深い山の中で、地形的には上り下りを繰り返す地点になっています。何日もかけて歩いてきて、こんなところがあれば気が滅入るのも当然ですね。

精進池

「石仏群と歴史館」前の無料駐車場に車を止めて、遊歩道を歩き始めます。遊歩道は歴史館のすぐ脇から出ており、精進池のほとりを進むのですが、草刈りが全く行われていないようで、鬱蒼として遊歩道がなくなりかけで、頭上にはたまに蜘蛛の巣が張っていました。もしかして箱根町はお金ないのか…?

ちなみに歴史館は通常10時から16時まで開館しており、無料で入館できます。あまり混むこともないようなので、詳しい歴史をゆっくりと知ることができます。

六道地蔵

遊歩道を少し歩くと、国道一号線の下を通るようになっている、右へ伸びる石畳のトンネルがあったので、潜り抜けてみました。するとそこには、六道地蔵が安置された、大きな地蔵堂がありました。が、なんと扉が閉まっていました。見られへんやん…。
六道地蔵は高さ3.5メートルに及ぶ地蔵菩薩坐像で、鎌倉時代に造られた磨崖仏(まがいぶつ、岩に掘られた仏像のこと)ですが、潔く諦めて横のお地蔵さんたちを撮影しました。

応長地蔵

応長地蔵

元来たトンネルを引き返して、撮影したのが、木陰にひっそりと佇む「応長地蔵」と、「八百比丘尼(やおびくに)の墓」です。
応長地蔵は一体に見えますが、実は三体のお地蔵さんが彫られた磨崖仏です。応長元年(1311年。鎌倉時代)の銘があることから、こう呼ばれているそうです。地藏菩薩立像として、国の重要文化財に登録されています。ちなみに応長年間は1312年までの約二年だけです。
また、かつて宮城野地区(石仏群から車で20分くらいのところにある)では、家族に死者があると、四十九日以内にここまで家族がやってきて送り火を焚く「浜降り」という風習があったことから「火焚き地蔵」とも呼ばれているそうです。

八百比丘尼の墓

八百比丘尼の墓

応長地蔵のすぐそばには、八百比丘尼(やおびくに)の墓と呼ばれる、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の残欠もあります。観応元年(1350年、室町時代)の銘があるそうです。宝篋印塔とは、お墓などに使われる仏塔の一種です。修復前の時点で、元の姿は失われていたということです。
八百比丘尼とは、日本各地に伝承する伝説上の女性で、人魚の肉を食べて、800歳まで生きたと言われています。比丘尼とは、女性の僧、つまり尼さんのことです。

多田満仲の墓

さらに遊歩道、というか茂みを進むと、道案内がありました。どうやらかつては精進池のほとりを歩ける遊歩道があったようですが、イノシシ出没のため立ち入り禁止になったみたいです。今では草が生い茂りすぎて、立ち入り禁止でなくても進む気になれません。

多田満仲の墓

次に「多田満仲の墓」と呼ばれる宝篋印塔がありました。多田満仲とは、源満仲とも呼ばれる、多田源氏の祖です。
ここで多田源氏って何?と思われるかもしれません。ちょっとややこしいんですが、説明してみたいと思います。

源氏とは皇籍を離れた(今でいう皇籍離脱した)人に贈られる苗字でして、どの天皇から分かれたかによって、何々源氏、と呼び方が変わります。
例えば嵯峨天皇から分かれたら嵯峨源氏、仁明天皇から分かれたら仁明源氏と呼ばれます。その中で清和天皇の子、貞純親王(さだずみしんのう)から分かれた清和源氏がいまして、その初代が、多田満仲の父、つまり貞純親王の子の、源経基(つねもと)です。
順番としては、清和天皇-貞純親王-源経基-多田満仲です。
源経基には、多田満仲以外にも何人も子供がいて枝分かれしたので、多田満仲の系統をさして、多田源氏といいます。

源氏の中でもっとも有名なのがこの清和源氏でしょう。というか、源氏と言えばほぼ清和源氏になっています。なぜなら牛若丸こと源義経(よしつね)や、鎌倉幕府初代征夷大将軍、源頼朝(よりとも)なども清和源氏だからです。ちなみに、何代も後ですが、織田信長を裏切って本能寺の変を起こした明智光秀も清和源氏です。

ところでこのお墓には、忍性(にんしょう、別名:良観)というお坊さんの名が刻まれているそうです。忍性は鎌倉時代に活躍した僧で、慈善事業に力を入れ、その中で建築にも深くかかわったようです。鎌倉にある極楽寺というお寺を開山(創始)したことでも知られています。

二十五菩薩像

二十五菩薩像

多田満仲の墓も抜けてしばらく進むと、今度は二十五菩薩像が見えました。かなり大きな岩で、この石仏群で一番の迫力です。名称は25ですが、実際には26体で、銘文に永仁元年(1293年、鎌倉時代)とあるそうです。そのほとんどが地蔵菩薩です。この磨崖仏群は、国の重要文化財に指定されています。

曽我兄弟の墓、虎御前の墓

曽我兄弟、虎御前の墓

二十五菩薩像を抜けると再び国道一号線の下を通るトンネルがあり、潜り抜けるとちょっとした広場に休憩小屋、そして案内板がありました。「あれ、ここで終わりか?」と思いましたが、草むらの向こうに、草で今にも隠れそうな小道がありました。

草をかき分けてそこを進むと、「曽我兄弟の墓」と「虎御前(とらごぜん)の墓」と言われる五輪塔がありました。五輪塔は宝篋印塔と並び、お墓や供養に使われる仏塔の一種です。左の二つが曽我兄弟の墓で、右の一つが虎御前の墓です。三つとも国の重要文化財に指定されています。

曽我兄弟による父の仇討の話は「日本三大仇討」に数えられ(他の二つは「忠臣蔵」と「伊賀越えの仇討」)、「曽我物語」となり後世に語り継がれていますし、世界遺産、白糸の滝のすぐそばにある音止めの滝の伝説にもなっています。
曽我兄弟とは、兄が曽我祐成(すけなり、十郎とも)、弟が曽我時致(ときむね、五郎とも)でして、仇討ちは見事成功したのですが、その後二人とも殺されてしまいました。
虎御前は曾我祐成の恋人であり、遊女でして、祐成の死後、箱根で供養を行ったそうです。
ちなみに曽我兄弟の墓、虎御前の墓は日本各地に複数あります。

アクセスと駐車場

国道一号線沿いに「石仏群と歴史館」という建物と、その目の前に無料駐車場があります。芦ノ湖の遊覧船乗り場辺りから車で5分程度です。反対側の小涌谷方面からだと、小涌園ユネッサンから車で7、8分です。
バスですと、箱根登山バスと伊豆箱根バスのバス停「六道地蔵」または「曽我兄弟の墓」下車です。歴史館に近い方は、「六道地蔵」です。

まとめ

元箱根石仏群へのアクセスと駐車場

車なら芦ノ湖の遊覧船乗り場から約5分、小涌園ユネッサンから7、8分。歴史館の前に無料駐車場あり。
バスなら「六道地蔵」または「曽我兄弟の墓」下車。

みどころ

石仏群と歴史館、精進池、六道地蔵、応長地蔵、八百比丘尼の墓、多田満仲の墓、二十五菩薩像、曽我兄弟の墓、虎御前の墓。

用語

  • 宝篋印塔(ほうきょういんとう)…仏塔の一種。お墓や供養塔として使われる。
  • 五輪塔(ごりんとう)…仏塔の一種。宝篋印塔同様、お墓や供養塔として使われる。
  • 磨崖仏(まがいぶつ)…岩に彫られた仏像。
  • 比丘尼(びくに)…尼さんのこと。

周辺エリア情報

道の駅

世界文化遺産

  • 須山浅間神社 (静岡県)

百~三百名山

  • 箱根山 (標高:1438m、百名山)
  • 金時山 (標高:1212m、百名山)

日本百名城

  • 山中城 (三島市)
  • 小田原城 (小田原市)

名勝や史跡、天然記念物など

  • 元箱根石仏群  附 永仁三年在銘石造五輪塔・石造五輪塔・永仁四年在銘石造宝篋印塔 (史跡 、足柄下郡箱根町)
  • 箱根旧街道 (史跡 、神奈川県足柄下郡箱根町、静岡県三島市・田方郡函南町)
  • 箱根関跡 (史跡 、足柄下郡箱根町)
  • 箱根仙石原湿原植物群落 (天然記念物 、足柄下郡箱根町)
  • 山中城跡 (史跡 、三島市山中新田、田方郡函南町)

その他のエリア情報

  • 道の駅 箱根峠 (神奈川県箱根町箱根381-22)
  • 久野ふれあい市場 (神奈川県小田原市久野3626-1)
  • かあちゃん (静岡県御殿場市中山483-7)

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